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「あら、お早いお帰りね」
つい数日前にも顔を出した彼に、冗談を向けながら小さな部屋に薄明かりを灯す。
ロウソクは部屋を照らし切らない本数と光量だ。
前回よりは不自然な程に良くなった怪我の様子が淡く浮かび上がる。
香は炊かない。
彼が何かに文句を言った事など無かったが、好きでないだろうとは察していた。
そんな聡さをプロ意識と呼ぶのが好きなのは、私のつまらない意地だけれど。
夜を過ごすのに必要最低限なものしかない部屋が私のお勤めの場。
「ふふふ、そんなにお困りなのかしら、色男さんなのにねぇ」
色男ってのはーー、なんて否定の言葉もお決まりのもの。
そこに彼の世話になる医師の名前が上がるようになったのは、ここ数年の中の小さな変化だけど。
シャツを脱ぎ捨てる動作に少しだけ覗く疲労も、鼻につく薬と血の匂いも、彼と過ごすうちに慣れたもの。
そして、挨拶もそこそこに身体にかかる体重も、口元を塞ぐ甘い口付けも。
熱に浮かされたような性急さとそれでも抜け切らない節々の気遣いも、痛みと快感をやり過ごそうと規則的に詰められる吐息も。
しとしとと、雨が降る。
彼が来る日は雨ばかりでもなく、規則を見つける方が難しいけれど。
「もう少し手酷いかと思ってたわ、大会、なんて言うのだもの」
怪我をしている時が多いのは本当。
来始めの頃は頑として触らせなかった包帯を交換するまでがお決まりとなったのはいつ頃からだったか。
手酷くない訳ないなんて重々承知で知らぬ風を装うのも、彼が心配される事を望まないと知っているから。
そして日付を思い出す。
「ふふふ、様にならない事。世間はバレンタインも過ぎたばかりなのに、こんな所にしか来れないようじゃ、ダメよ」
そんな冗談には、訪れた時の熱が嘘のような屈託ない笑い声。
怪我も伽の夜もまるで幻だったかのような。
それが彼のプロ意識という名の意地なのも知っていた。
扉をひとたび開けば、その先の全てが彼にとってのお勤めの場、なのも。
「また、いらしてね」
いつもの別れの言葉に、はにかむような笑みだけ返す彼の頬の傷跡をなぞって。
いつもの別れの口付けをする。
次の約束など返ってきた試しがないくせに、チップはいつだって破格なのよね。
けれど、いつか、彼に会わなくなる日を楽しみにしている事は誰にも言わない私の秘密。
プロ意識と呼ぶのが好きな、私の意地にかけて。
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見ーつけた、と夕暮れに彼の声が響くのは何度目だろう。
「どうして分かったの」
僕は口を尖らせて、その木の幹に足をかける。
分かるに決まってるだろーが、と自信満々に職業名をあげる彼は、降り切る最後の一歩に手を差し延べる。
僕が転びかけない限り、触れては来ないグローブの手。
「今日は自信あったのに」
諦め切れなくて言ってみるけど、いーから帰るぞと促される。
夕暮れの草原を街まで並んで歩く時間に僕は今日一日の出来事を話す。
学校で日直だった事。隣の席の子が風邪で休みだった事。音楽の授業で今度楽器のテストがあるって発表された事。家に帰る帰り道にいつものしっぽの曲がった猫を見つけた事。
なんてことないいつもの話の、どこに逃げ出すようなことがあるのか分からないと、大人たちが首を傾げる僕の日常。
なんてことない毎日が、なんてことなく続いていって終わらない事に、僕は時々どうしようもなく吐き気を覚える。
恐怖を覚える。
絶望を覚える。
手放したくないのに、持ち続ける事がたまらなく嫌になる。
「ワガママかな?」
僕が聞くと、ワガママだぁな、と彼はにべもない。
「贅沢?」
とっても、と彼が笑う。
とっても。でもま、ーー分からなくもない。
笑って一歩先を行き始める彼の背中に汗が滲んでいるのに気がつく。
僕が家出する度に見つけ出す彼は、いつだって自信満々に笑うんだけど。
「今度はもう少し街に近いところにしてあげるよ」
僕の冗談は時々大人を怒らせるけど、今のところ、彼は怒ったことがない。
怒るどころか、可笑しげに笑うから。
「ねぇ、いくら貰ってるわけ?」
憎まれ口を叩いてやるんだ。
夕暮れに彼の背を追って。
皆がお手上げの家出少年の捜索だなんて、儲かりそうもないのにね。
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「どうやってシェドを丸め込みやがった!」
叫ぶ声に血が喉を遡る。
胸糞悪い血反吐を吐き捨てたら、靴が汚れて余計に胸糞悪くなった。
人聞きの悪い、と薄く嗤う男が組に顔を出しだしたのはもう何年も昔だ。
どうやって入り込んだかは知らねぇ。
ふらりと顔を出しちゃ数日彷徨いて、気づけばどっかに行っちまう。
妙な肩書きと誰にもつかない中立なんつー立場を、ボスはやけに気に入ってたが、いつもの気まぐれだろうと皆笑っていた。
そうでなければ夜のお供だろう、確かにガキっちい顔はボス好みだと。
実際にその頃はガキが抜けきらない年だった。
裏通りのギャングを前に平然と人は殺さないー、なんて公言する甘さは冗談でなきゃぁ、酔狂だ。
そうでなけりゃ、それ以下のクサレ××××だっつって、笑ってたのだってつい最近だ。
「ハッ、殺さねーだなんだってのはお遊びだったっつーのか、アァ!?」
どう思う?ヤツが嗤う。
クソ忌々しい笑みが張り付いた顔で。
さっきまでは俺がナイフを向けて優勢だったのに、何をしたか知らねぇ、ぶつかった拍子にナイフを叩き落とされちまった。
何かの体術なのか、なんだってんだチクショウ。
カンタンな話さ、両手を広げて若造がのたまう。
何を支払うかの問題だ。
「ギブアンドテイクだって言いてえのか、クソ青二才がッ、上からかテメェ!ぶち殺してやっかんなァ!」
ーー全てを捨てるか、全てを失うか。
「意味分かんねぇんンだよッ、一緒だろうがどっちも!」
氷色の瞳が細くなって月の光で光る。
昨日蹴りつけてやったあの野良猫みてぇな、生意気な目つきだ。
コイツもあの猫みてぇにおっ死ねばいいのに。
アンタの地位は誰の賛同をも得ていないんだよ。
「俺が奪ったんだから、俺ンモンなんだよ!文句がーー」
ーーあるなら、力づくでひっくり返せ?
そう、それがアンタの愛した不文律。
ちなみに、世界の法則は平等じゃなきゃあいけねーってのは、俺じゃなくてシェドの考えのようだぜ?
「身内殺しは法度だろーが!」
身内?可笑しげに、ヤツが嗤う。
くつくつと嗤って、一歩俺に近づく。
「くっ、来ンじゃねぇよ!チクショウ、ブッ殺すぞゴラァ!」
素手で?もう一歩近づく。
アンタが俺を?ーーもう一歩。
憎ったらしい笑みが、仮面か何かみたいに変わらない。
さぁ、選べよーー。
俺は『なんでも屋』だ。
なぁ、アンタの支払う『対価』はなんだーー?
ヤツの手が俺の首へと伸びて掴む。
その、笑みが消えない。
俺は体が動かない。
こんな若造にビビるはずなんざねーのに、凍り付いたみてぇに。
息も詰まって、真っ直ぐ、ガキみたいに真っ直ぐ俺を写す氷色を見返して。
「 ァ、ッガぁっ、 ………ッ!」
それが、2年も前の話だ。
ガキ臭かったヤツは、相も変わらずガキっちいが。
笑う表情が最近少しだけ変わったのは、ヤツが変わったのか、俺が変わったのか。
『なんでも屋』なんて、クソ忌々しい事に変わりはねぇんだ。
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街の周りは風土豊かだ。
海があり、山がある。
河が流れ、崖が走る。
「お前『なんでも屋』だろ、知ってんだぞぉぉぉぉぉぉぉぉおおお!」
街には多くの人が集まる。
住人が。旅人が。冒険者が。
「目ぇ逸らしてんじゃねぇよ、酒場で聞いたんだからな俺ぇぇぇぇええ!」
足して2で割れば明解だ。
人が崖から落ちかけるなんて悲劇も往々にしてある。
ガッデム。
「分かった!目は逸らしていい!目は逸らしていいから、手は離すな、な!頼むから離すなよ!
俺は今ケッタイな龍型風船は装備してねぇんだ!な!?」
嫌がる素振りとは裏腹に、伸ばされる男の手はしっかりと俺の手を掴んでいた。
掴んではいた、が。
「頑張って!引っ張って!オーエイっ、オーエイっ!
負けんじゃねえ、男は気合いだろっ。ここらで流しのファイターに恩を売っておいても損はねぇぜ青年!」
ずるり、ずるりと少しずつ下がる体に戦慄しながら叫ぶ俺。
あぁ哀れ。
崖の下に咲いた花なんて、眺めるんじゃなかった。
ロマンチズムがいつの日かアダになる気はしてたんだ。
マミーの言った通りになったね。
「いいんだよ、突っ込まなくて!降りてから見ればいいなんてこたぁなぁ、先に気づいてたら落ねぇんだよ!」
事実はいつだって無情だ。
崖の淵に見えなくなった半眼に叫ぶが、呻き声しか聞こえなかった。
握る手のグローブが震えている。
確かに噂に聞くなんでも屋は想像よりも線が細かった。
華奢とまでは行かないが、フル装備の剣士で背も体格もある俺を腕一本で引き上げるのは荷が重いかも知れない。
しかしそれでも、震える腕が徐々に俺を引き上げ始める。
少しずつ少しずつ、高度が上がって。
崖の淵から向こう側の男の顔が見える。
真剣な顔はそれまでの崖越しの気の抜けたやりとりなどなかったかのように真っ直ぐだった。
俺は思わずはっとした。
なんでも屋も同じだったようで、アイスブルーの目が見開かれる。
その瞬間。
ずるっ。
グローブが嫌な感触をたてた。
つまりは滑った。
つまりはなんでも屋の手から外れた。
つまりはそれに掴まっている俺も掴むものを失った。
ーー薄い皮の手袋以外。
滞空時間なんてものはその実存在しないのだと思う。
ただ、落ちる瞬間、えも言われぬ気まずさを伴ってなんでも屋が言った言葉がやけに耳に残った。
悪い!
ーー前払い推奨なんだわ。
「金の亡者めぇぇぇぇぇぇええええええ!!」
事実はいつだって無情なんだ。
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